Masuk「梅皇貴妃。私です」夜に男の人が訪ねて来た。それだけでちょっとうれしい。自室にいた私は招き入れた。「どうぞ。入って」声でわかった。恭郡王である。「お久しぶりです。お元気でしたか」恭郡王が訊ねる。「私は変わらず元気よ。恭郡王も元気そうね」「はい。どうにかして梅妃とお会いしたかったのですが、諸事情が許さず、こうして今夜になりました」「別にいいのよ。気にしてないわ」「それにつけても、王宮内は三つのグループに分かれ、世継ぎの座を争っておりますな」「ええ。私もそのグループの一員よ」「かねてから、私が何か梅妃のお力になれたらと思っておりました。直接お会いしたかったのです」恭郡王は私に会いに来た理由を明かした。「うれしいわ。恭郡王にそこまで思ってもらえるのなら。そこにいて話を聞かれるとマズいわ。もっと近くにいらして」恭郡王を私の座る近くに呼び寄せた。彼の上品で涼し気な顔が近づく気配がした。自室の灯りは消していた。暗がりで男がそばに来て、つい手が彼の顔に伸びた。私は彼の頬に手を当て、優しく撫でた。自分の顔をさらに近づけ、目を閉じた。二人は接吻した。甘美な口づけがあの晩を思い起こさせた。冷めていた愛が再燃するのか、と半分期待した。唇を離すのが惜しかった。恭郡王の方が口づけを終わらせた。互いに沈黙し、私は長い髪を触った。所在なく着物を手で撫で、相手の出方を窺った。暗い中、二人の男女はじっとしていた。恭郡王はとくに何もしてこない。ただ、暗い部屋でかすかに彼の息が音を立てた。どうしてよいかわからず、何か言おうとして言いあぐねた。意を決し、口を開いた。「恭郡王にどこまで話したかしら? 私の身の上を」「そうですね……。私自身の話ばかりしましたね。梅妃の過去は宮廷内の噂程度にしか存じませぬ」そうだった。競渡で舞い上がった私は、彼を質問攻めにし、イケメンをぐいぐいと自分の領域に引きずり込んだのだった。「じゃあ、最初から話すわ」「わかりました。話せる範囲でどうぞ。私はただ聞いております」「私は王宮の第二夫人として、皇帝の寵愛を受けていたわ。それで幸せだった。その状態がずっと続く。幸せな日々を送れる。そんな風に思ったのが間違いよね。悪い召使は私に目を付けた。私を唆し、私は窃盗罪で地下牢に幽閉された」「ああ、れいのあの事件ですね」
三人の皇子は生まれながらにして、皇帝の世継ぎ争いという看板を背負わされた。竜光皇子、獅雷皇子、双渦皇子。郭貴妃がいて、私がいて、皇帝の妹がいる。だれも譲らなかった。三人の母親は、懸命に我が子──郭貴妃の場合は従妹の子だと噂されたが──を王宮内でアピールする日々が続いた。皇帝はまだ若い。現実的に皇帝の位を禅譲するのは何十年も先の話だ。ただ病没や戦死の可能性がある以上、万一の事態に備えて次を決めるには、早いに越したことはない。三皇子の乱立で、その判断が難しくなった。世継ぎ問題は混迷を極めた。はたして、皇帝は三人の子を我が子だと思っただろうか。それを確かめる機会もなくはなかったが、面と向かって訊きづらかった。三皇子が皇帝の本当の子どもなのか。それは重要であるにもかかわらず、真偽の事実さえ確たる証拠もなく、判断のしようがなかった。各人の思惑が絡み、王宮は揺れた。皇帝はその状況に対して、昼夜を問わず悩まれた。深く嘆いていた。皇帝を世話する召使たちの口から何度も聞いた。「どうしたものかなぁ。朕の世継ぎだなどと、三人の女たちがかまびすしく主張して」皇帝はお付きの召使にそんな風にこぼした。私は違う召使からその話を人づてに耳に入れた。皇帝の悩める姿を慮ると、たいそう哀れで心が痛んだ。皇帝は自室に私を呼んだ。私は床に伏せた。「梅妃よ。おまえも三皇子問題の渦中の人物じゃな。朕は深く憂慮しておる。三人の皇子がすくすくと成長して大人になったとき、互いをどう思うのか」「さようにございますね。私は自身の皇子がすんなりと皇帝の座に就くとは思っておりませぬ。親の贔屓目であっても、やはり三人、いや白虎王子も含めた四人の中で、いちばん思慮深く、賢明で、文武に秀でた人物。国を治めるのにふさわしい器の持ち主が、次の皇帝として選ばれるべきだ。そんな風に思います」「そうじゃな。朕もそのように思う。そうなるのが筋で、もっとも王宮内で支持され、国民も納得するはずじゃ。しかし、物事は得てして理想通りに行かない。今の乱立状態がすぐに解消される見込みはないし、王宮内の過熱ぶりに朕はうんざりしておる」「お気持ち、お察しします。もう少しの辛抱です。いつ収束するのか、私にもわかりませぬが、皇帝は皇帝らしくあられませ。それがいちばんでございます。常に気高く、主君として
郭貴妃の竜光皇子に、私の獅雷皇子。王宮は白虎王子をさしおいて、二番目と三番目の皇子のどちらが世継ぎ競争を勝ち抜くかに注目が集まった。互いに皇帝の子ではないのに、それだからこそよけいに熱を入れた。それぞれの男児を次の皇帝にし、ゆくゆくは最高の絶対権力を手に入れ、王宮をほしいままに支配したい。執念と野望。それに燃える私たちは、周囲も巻き込んで激しく火花を散らした。廊下で鉢合わせれば、当然のようにケンカを売った。「ちょっと。向こうへ行くのよ。邪魔だわ。どきなさいって」私は郭貴妃に噛みついた。「何よ。そちらこそ、どいたらどう? 私には大切な用事があるのよ」「どかないわよ。どくもんですか。そっちが先に下がるか、わきによけなさいよ。どちらの位が上だと思ってるの? 第二夫人に命令するな」「はあ? この際、身分の上下なんて意味をなさないのよ。そもそも、竜光皇子が先に生まれたのよ。先に生まれたグループに優先権があるわ。早くどいて。蹴り飛ばすわよ」郭貴妃も口では負けてない。両者は前に進み出た。顔を近づけ、ガンを飛ばした。あなたが召使の元愛人で、クーデターを成功させるために色仕掛けで皇帝を唆そうとした悪女よ。その黒歴史は塗りつぶせないわ。心の中で彼女をなじった。二人が睨み合ってると、二人の皇子が泣き出した。若い女官の腕に抱かれた獅雷皇子は、廊下中に響くくらいの大声で泣きわめいた。一方、別の女官があやしていた竜光皇子も獅雷皇子に負けないくらいの鳴き声を上げ、周囲をうろたえさせた。「見なさいよ。あなたが意地悪するから、うちの皇子が泣いてるじゃないの。責任とりなさい」郭貴妃の顔をビシッと指さした。「私、意地悪をした覚えはないわ。なによ、責任って? 笑わせるわ。そちらが無茶を言うから、竜光皇子が泣き止まないのよ」そこへ皇后が通りかかった。郭貴妃の周囲の人たちは通路をあけ、私たちも廊下を皇后に譲った。皇后は私のところを通り過ぎたあと、こちらを振り返って諭した。「無駄な勢力争いで王宮を騒がせないでちょうだい。賢明な皇帝陛下がしかるべき時期に次の皇帝をお決めになる。私はそんな風に思ってます。赤ん坊を泣かせてまで意地を張り合う親は母親失格ですよ。もっと子どもを慈しみ、深い愛情を注ぎなさい」皇后にしては珍しく感情を表に出し、二人を𠮟
確たる証拠はないが、きわめて怪しい臭いのプンプンする皇子が誕生した。郭貴妃が産んだとされる竜光皇子である。王宮のあちこちで、郭妃と竜光皇子に関する噂やデマがまことしやかに語られた。私は、皇帝の従兄にあたる恭郡王に、夢の中で抱かれた。恭郡王は、たしかに王宮にいる実在の皇族だ。食堂で見かけたことはあるが、近くで話をした覚えはない。なぜ、いま、恭郡王の存在が──。私の夢にそのような人物がでてくる。夢だから理由は不明だ。また何かの暗示なのか、と首をひねりたくなる。恭郡王は長身のイケメンだ。皇帝も若くてイケメンだが、顔について言うならば、恭郡王の方がワンランク上である。「もし近くに来たら、こちらから話しかけてみようかしら」私の中のいけない気持ちが、重い車輪のゴロリと転がり出すように、のそのそと動き始めた。私の気持ちは出会いを引き寄せた。恭郡王に話しかけたのは、彼の夢を見てから一週間後だった。ちょうどその時期に、華やかな催しが外で行われた。競渡(ドラゴンボートレース)である。王宮の裏に広大な池がある。金琉池である。金琉池の上にロープを張り、その中で龍をかたどったボートを浮かべ、スタート地点から池の端まで行って折り返し、グルッと反転して元の場所へゴールする。それを数艇のボートで勝負を決める競走である。池の外では、楽団が太鼓やドラをにぎやかに打ち鳴らす。長いボートに乗った二十数人の男たちが、櫂でボートを一斉に漕ぎ出し、ゴールするのを競う。ちょうど現世でいうところのペーロン祭である。私もそのレースを池の手前で、かぶりつきで見物した。ボートにはそれぞれに色の旗をつけていた。どれでもよかったが、私は緑色の旗をつけたボートを応援した。「頑張れー! ファイトー!」池の水面を男たちの乗ったボートが滑るように進む。猛烈な勢いで櫂を合わせて必死に漕ぐ。その勇姿に感動し、エールを送った。それぞれのボートはとても長い。まっすぐに漕がないと横を走るボートに接触してしまう。しかし、漕ぎ手はみな慣れたもので、各ボートを真っ直ぐに進めた。ボートはスイスイと速く進んだ。応援していると、ふと気づいた。私の隣の隣に恭郡王がいるではないか。「チャンス!」心の中でガッツポーズした。この世界に来てから、こんな風に理想の恋愛をいくつしただろう。それを追い求める体質
男児を身籠った私だが、劉妃はチョーに関して私をなじった。心身ともに不安定となり、懐妊してしばらくしてから、流産してしまった。悔しさのあまり、劉妃を憎んだ。恨みに思い、いつか復讐してやろうと考えた。それでも、その方法や計画が頭に描けず、宙ぶらりんになった。一方で不穏な動きが進行していた。劉妃と郭貴妃は従姉妹の関係である。その立場を悪用した。何度皇帝と寝ても男児を授からない郭貴妃は、焦っていた。彼女は悩んだ末に、町で生まれた男児を士良と劉妃の間に生まれた男児と取り替えようと画策した。郭貴妃は親しい召使に命じて町にやり、作戦を実行した。召使は町医者のベッドで寝かされていた劉妃の赤ん坊を、別のカップルが生んだ別の男の赤ん坊と見事に取り替えた。医者も常に監視しているわけではなく、気づかなかった。召使は毛布で男児をくるみ、王宮に持ち帰った。劉妃には何も知らせず、劉妃はよその子を我が子と信じて育てているという。その話は召使の間で極秘事項として囁かれ、私の耳にも届いた。皇帝との間に子どもができない郭貴妃の考えそうな悪だくみだ。強引に奪った劉妃の男児を皇帝との夜伽で授かった子どもだ、と王宮内で言いふらした。「その子こそ、新しい正統な世継ぎよ」愚かな郭貴妃はそんな風に主張し、その主張を譲らなかった。「何と、まあ! 本当に劉妃の子なの?」私は最初から信用してなかった。自分が皇帝の男児を流産してしまったやっかみではない。郭貴妃の顔を見れば、とうてい真実を語っているようには見受けられなかった。「本人は、私のときみたいに有頂天ではしゃいでいるけれど、女官から聞いた話では、懐妊のタイミングと子どもが授かった日にちがどうもズレているらしいのよね」女官と話をし、その部分だけ声をひそめた。表面上は祝福しながら、本音は郭貴妃の「狂言」に騙されぬよう、気を引き締めた。もしも、男児は別の人の子どもで、根拠のないのに「皇子、皇子」と騒いでいるのなら、きっとどこかでボロが出て追及されるだろう。私は冷静に事態を見守った。郭貴妃はその男児を「竜光皇子」と名づけた。一部では、皇子の存在を疑問視する声も上がり、郭妃はむきになって声高に「正式な世継ぎ」と連呼した。王宮の外に劉妃。王宮の中に郭貴妃。天敵とライバルが二人もいた。先が思いやられた。二人の悪い女に
町で近衛兵の双子の弟士良。士良と劉妃は結婚した。同時に子どもを授かった。一方で、召使というパートナーを失った劉妃は、皇帝の愛を受けつつ、おかしなことになった。郭貴妃は、「皇帝の子を身籠ったわ」と周囲に漏らしたらしい。私も聞いた。しかし、日にちが過ぎてもいっこうにお腹周りが大きくなる気配が見られない。女官の勧めで、ちゃんと侍医の診察を受けた。「これは妊娠ではありませんね」侍医ははっきりとそんな風に断言したという。郭貴妃のケースは、月経周期の狂ったいわゆる「想像妊娠」だったのだ。妊娠したときと似たような症状、すなわち月経がストップする。つわりや食欲不振、胸の張り具合、腹部のふくらみなどがある。そうした症状は、侍医の診断を境にしだいに収まった。二週間後には完全に消滅した。郭貴妃はずいぶんと不機嫌になり、周囲に当たり散らした。一方の私はと言うと、心身ともに健やかで周囲の人間関係もとくにおかしくはならなかった。そんなある日、私は皇帝と一夜を共にし、その後に月経が止まった。これは、と思った。「妊娠以外でも、月経はとまるのよね。ストレスとか、急激な体重変化とか。でも、今回の私のケースには、そういうのはなさそう。もしかしたら、もしかするかも」期待がふくらんだ。そんな風に思い、侍医の診察を受けた。侍医は私の体の変化を見て、笑顔で告げた。「梅皇貴妃。おめでとうございます、妊娠ですよ」老いた医師の口調に喜びの色が混じっていた。「ほ、本当ですか」「ええ。間違いありません。これはおめでたです」診察台からゆっくり体を起こし、私は侍医の手を握った。「ありがとうございます。いい子を産みます」その時点で男児なのか女児なのかは不明だった。それでも、皇帝の精子と私の卵が正常に結合し、子どもを宿した。その揺るぎない事実は、おおいに私を勇気づけた。私は診察室を出ると、両手を上に突き上げた。「やったわ! とうとう皇帝の子を産めるのよ。こうなるのをどれほど待ったか。この私に産む権利があるのね」まだ見ぬ我が子を前に、お腹をいたわり、優しく、愛おしく撫でた。もし、男児ならば、待望の世継ぎになれる。期待はさらにふくらみ、大喜びだった。それから数週間──。食欲は増進し、酸っぱいものを好むようになった。周囲にも皇帝の子が授かったと打ち明け、私と会う人、
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。とても感慨深い、特別な時間だった。皇后とは風呂でご一緒した。さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いてい
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。私は貴婦人である。相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。彼らを使うのにも、すっかり慣れた。二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。召使を呼んだ。「風呂に入りたいのじゃ」「はい。準備して参ります。しばし







